アワー・ミュージック

正しいヒマの過ごし方。楽しいお金の使い方。

川上未映子『わたくし率 イン歯ー、または世界』 「私」の問題

 

わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)

わたくし率 イン 歯ー、または世界 (講談社文庫)

 

 

人は、自分以外の誰かになることはできない。言い換えると、私は私の外側に出ることはできない。自意識と言う監獄に閉じ込められている。と一般には言われている。だが、本当にそうだろうか。この小説は、そのような「私」像に徹底的に乗っかることによって、そのような「私」観の問題点、気味の悪さを暴き出し、そこから一歩進んだ私と世界との関係性を予感させた。

 

一口に「私」といっても、「私」は一つではなく、いくつかの領域に分かれる。

アタマとカラダ、肉体と精神、理想と現実、もしくはそのような二項対立とは関係のないところでグチャグチャしているものなど、エトセトラエトセトラ。

この小説の主人公は、そんな「私」を、私とわたしとわたくしとに分けている。

ここでは、私は自分の精神、自己とか自我とか呼ばれるようなもので、わたしは自分の肉体、表象であり、その二つをまとめたものをわたくしと呼んでいる。

そして主人公は、その「わたくし」は、奥歯である、という妄想に意識的にしがみついている。そして妊娠してもいないのに未来の自分の子どもに向かって手紙とも日記ともつかない文章を綴っている。

この小説は一人称の関西弁まじりのしゃべり言葉によって書かれてて、初めから終わりまで、徹頭徹尾わたくしの見たもの、わたくしの思い出、わたくしの感情、考え、印象がまくしたてられている。この世界のすべては、わたくしと結びついていて、わたくしとは切り離せない、わたくしの世界は、わたくしなしでは存在し得ないとでも叫んでいるようだ。

世界の中心はわたくしである。このような「我思うゆえに我あり」的なスタンスで、この物語は進んでいく。そして物語のクライマックスで、わたくしがそうして疑いをもつこともなく築き上げ守り続けてきたわたくしの世界観が、他者によって揺さぶりをかけられる。世界は、わたくしが思い描いているようなものではない、という現実を突きつけられる。そうしてわたくしの限界を感じた主人公は、デカルト的な「我思うゆえに我あり」の世界像とは別の世界像を志向するようになる。

それはたとえば川端康成の『雪国』の冒頭のような、西田幾太郎の純粋経験のような、主語のない、わたくし偏重の世界観から脱却した世界像である。それがどういったものであるか、この作品の中では具体的には描かれていない。気になるので、これから川上未映子のほかの作品も読んでみようと思う。

 

この本の宣伝文句に、「哲学的テーマをリズミカルな独創的文体で描き」というものがあるが、このような哲学と小説の関係は、とてもおもしろいと思う。哲学はあくまで理論や考え方、世界認識の方法であって、そのままそれだけでは机上の空論とまではいかないまでも、ただの計画に過ぎないものであって、あまりにも抽象的すぎる。というか、哲学は現在の世界やら個人やら世界やらを捉えようとしながら、未来に向かって書かれているようなものであると僕は思っている。だから哲学や思想というものはそもそも広く知られなければ意味がないと思うのだけど、たいていの人は小難しい見慣れない理論なんかを読み解いて解釈するようなヒマも興味もないのが現実で、そのような普通の人も読む小説というジャンルでこんな風に哲学を解釈して実践してみせたこの小説はすごくおもしろいし、こんな風な「哲学の実践」めいた小説が増えていったらいいなあと思った。もちろんこの小説のおもしろさっていうのはそれだけではないのだけれど。

 

なんていうか、この小説で描かれる極めて個人的な物語と、人類の考えてきたこと、哲学の歴史が響き合うさまに、現代らしさを感じておもしろかった。

現代短歌の可能性

僕たちはいつだって、「いま・ここ・わたし」を生きるしかない。

そして時々、僕たちの「いま・ここ・わたし」は頼りない。今ここにあるすべてでは、どうやって生きていけばいいのかわからなくなる時がある。
そんなとき、たった一つでも、ささやかでも、ありふれたものでも、なにか実感があれば、と思う。頭でわかっているだけじゃなく、全身に染み渡るような、ハッキリとした実感があれば、明日を信じる強さが持てるのに、自分を、自分の身体、現在地、現在にしっかりと繋ぎ止めていられるのに、と思う。僕たちはいつもとりとめがなくて、自分自身がわからない。それで何度でも不安になる。さみしくなる。自分がいやになったりもする。
 
だけど的確な言葉を見つけたとき、人はよろこびや、かなしみ、さみしさ、怒りといった、自分の気持ちを実感する。なんだか、ちょっぴり救われたような気がして、心が軽くなる。目の前の世界がちがって見える。自分が本当に欲しいもの、やりたいことが見えてくる。
 
確かな言葉が欲しくて、大傑作と言われているような文学を読んでみても、なかなかわからなくて、入り込めなかったりする。現代に生まれ、現代に生きる僕たちが、最も実感を得やすい言葉、共感しやすい言葉は、現代の言葉なのだ。なるべく身近な文学。現代の、話し言葉で書かれているもの。それにいま最も近いのは、現代短歌であると思う。みんなあんまり知らないだけなのだ。短歌というと、なんだか長い伝統を感じさせて、古めかしい言葉が使われていてよくわからないもの、と思うかもしれないが、まったく違う。
短歌とはそもそも、誰でもできるものなのだ。上手い下手はあるものの、昔の人は、自分の気持ちを短歌に込めて、お手紙をやりとりしたりしていたのだ。今では、ツイッターに自分が作った短歌を載せる人もいる。短歌は原則的に31文字で、ツイッターの文字数制限が140文字なので、一度のツイートで短歌を書き付けてもまだ少しおつりが来る。SNSと現代短歌は、きっと相性がいい。SNSが今僕たちにとって身近であるように、現代短歌だってもっと身近になってもいい、と思う。
 
大掛かりな文学作品では、取りこぼしてしまうような、生活レベルの実感を、現代短歌は捕まえることができる。僕らの一生は、日常と非日常の連続でできていて、だから、生活の実感というのは、生きることの実感にだって繋がる。
 
現代短歌をたくさん集めて、目の前の世界をころころ変えて遊ぶのも楽しいし、大切な人と共有してほっこりするのもいいし、やり場のない自分の中の激しさをその中にそっと隠してやり過ごすのもいいだろう。ロマンチックな一首を見つけて、口説き文句に使ったっていいかもしれない。
ここまで読んで、少し現代短歌に興味を持ってくれた人のために、僕が好きなものをいくつか載せておこうと思う。
 
眼をとじて耳をふさいで金星がどれだかわかったら舌で指せ/穂村弘
朝の陽にまみれて見えなくなりそうなお前を足で起こす日曜/穂村弘
完全にだめだと思う生きている夜の海には朱肉の匂い/穂村弘
夢の中では、光ることと喋ることは同じこと。お会いしましょう。/穂村弘
金星を見ても両目は焼けなくて笑う二人はとても色白/雪舟えま
目がさめるだけでうれしい 人間がつくったもので空港が好き/雪舟えま
寝顔みているとふしぎに音がない。来たくて来た場所はいつも静か/雪舟えま
百枚の手紙を君に書きたくて書けずに終わりかけている夏/俵万智
へたなピアノがきこえてきたらもうぼくが夕焼けをあきらめたとおもえ/正岡豊
かぎりあるいのちのあさをたわみつつ海のひかりはかへる 海へと/永井陽子
君とわれ宇宙に浮きし塵のころ地球の誕生ながめていたり/野口恵子
背をあわせ皺をあわせて干しぶどうの袋の中のしんみつさになる/東直子
口ずさむ歌があなたと違っても同じ黒さの影を抱きたい/文月郁葉
肯定も否定もすべて受け入れて寄せては返す波でありたい/文月郁葉
このケーキ、ベルリンの壁入ってる?(うんスポンジにすこし)にし?(うん)/笹井宏之
Without youとはたぶん星たちが透けるくらいに青い空の名/植松大雄
 
この中のいくつかを気に入ったり、気になったりして、もっとたくさん読んでみたいけれど、なにから読んだらいいのかわからない。どうやって探したらいいのかもわからない。そんな人たちに、いいお知らせがある。先月、現代短歌の地図のような、すばらしい本が出た。山田航という人の、『桜前線開架宣言』だ。この本では、1970年以降のすてきな歌人をピックアップして、表現の特徴やら、その人が作った短歌が見開きページいっぱいに載っている。「歌集が欲しいんだけどどうすれば手に入るのかな?」なんていうコラムまであって、これ以上ないくらい最適な現代短歌の入門書だと思う。適当なページをパッと開いてなんとなく拾い読みするだけでも、気に入る言葉に出会えるはずだ。
桜前線開架宣言

桜前線開架宣言

 

 

天才と悪魔 <快ー不快>という尺度


Robert Johnson- Crossroad

ロバートジョンソンという伝説のブルースマンがいる。ローリングストーンズだとか、その後のたくさんの音楽に影響を与えた。僕にはイマイチぴんとこないが、ポップソングの祖だなんてことも囁かれている。

彼には一つ、おもしろい逸話がある。ある日、彼が歩いていると十字路に突き当たり、そこで悪魔と契約をして、誰もがアッと驚くような天才的なギターの腕前を手に入れて、それと引き換えに彼の魂を売り渡したのだ、と。

天才とは、すばらしいもの、新しいものを、次々にひょいひょいっと作り出してしまう人のことを言う。その常人離れした才能は、伝説を作る。たとえば、上に挙げたロバートジョンソンの話のように。

 

60年代のアメリカで、若者たちがエルヴィス・プレスリーや、ほかの生まれたてのロックンロールに熱狂していた頃、ロックンロールは悪魔の音楽だ、と、大人たちは眉をひそめていたという。それでも若者たちはそれを気にも留めずに踊り狂った。

芸術において、「悪魔のような」というのは褒め言葉だ。常人の感覚とはまったく違う、卓越した天才にしか使われない言葉だ。

 

ドイツの偉大な知性、ゲーテは、モーツァルトの音楽を、悪魔のような音楽だと言っているのも、おもしろい。

エッケルマンによれば、ゲエテは、モオツァルトに就いて一風変わった考え方をしていたそうである。如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、一人として成功しなかった。何時か誰かが成功するかも知れぬという様な事さえ考えられぬ。元来がそういう仕組みに出来上がっている音楽だからだ。はっきり言って了えば、人間どもをからかう為に、悪魔が発明した音楽だと言うのである。

小林秀雄『モオツァルト』

 映画評論家の淀川長治も、ゴダールの映画を評して、「悪魔のような映画だ」と言っていた。それまでの映画の枠組みから、あまりにも大きく、あまりにも平然とはみ出してしまっていたからだ。

 

悪魔とは、いろいろな解釈があるが、とにかく悪とされているものだ。その正体は、僕が思うに、キリスト教の戒律において、忌避すべきだとされているもの、すなわち快楽である。快楽は人を堕落させる。だから悪なのである。

 

神は死に、ニーチェも死んだ現代の芸術においては、もはや<善ー悪><真ー偽>といった単純な二項対立的な評価基準はふさわしくない。この世界は、唯一神によって七日間で作られたものだとは、大半の日本人は信じていないだろう。この世界の始まりは、ビッグバンと言う大きな混乱、カオス状態から始まった。一度散らかったものは、くっついたり離れたりを繰り返して、また散らかり続ける。そんな風に誕生して、今日まで続いてきたこの世界に、たった一つの真実があるわけではもちろんない。わかりきっていることだが、この世界はその根本から既に多様なのだ。それでは、そんな世界像が当たり前になった現代において、なにを基準に評価すればいいのだろうか。それは、気持ちが良いかどうか、ゾクゾクするような刺激があるかどうか、陶酔感があるかないか、つまり、<快ー不快>の尺度ではないだろうか。もちろんこの価値基準がすべてではない。これもまた一つの物差しでしかない。だけどとにかく、気持ちのよいことはいいことだ。二十一世紀の快楽主義者でありたい。

 


踊ってばかりの国 「ハロー」 live (神戸スタークラブ2010/3/7)

気持ちよくなれるなら 僕はゴミでも食えるよ

汚い食べカスも どんな臭い燃えカスも 

 そういう意味で、踊ってばかりの国は大好きだ。バンド名からして、最高だ。踊ってばかりいる国だなんて、なんてアホらしいんだろう。彼らは、気持ちよくなるための音楽を作り続けている。花に囲まれて生まれた子どもたちが、すくすく大人になって歌い出した音楽だ。大人たちがきっと嫌な顔をする、悪い子のための音楽だ。

「意味がない」ということについて

なにかの意味を実感するためには、信じることがその前提にある。

意味の背後の価値、及びそれを形作るところの価値観を、全面的に受け入れて肯定し信じることができなければ、何事も意味を為さない。
神様を信じない人にとっては、祈りなんて無意味だし、ロックンロールを信じない人には、夢を追いかけフリーターを続けてときどきライブをするような人生は、滑稽に映るかもしれない。愛を信じない人に幸福な結婚はできないだろう。
 
私たちはしばしば、なにかにつけて”意味”を求めようとする。”生産性”に固執する。しかしそれがなんだというのだろう。そのような考えを突き詰めていくと、人の一生はただ生まれて死ぬだけで、なんの意味もないというところに行き着くのではないだろうか。
ぼくたちが意味を感じるのはふつう、僕らが子どもから大人になるまでに、無意識のうちに植え付けられてきた常識や偏屈、先入観に沿ったものだけだ。だからぼくたちが持っている感受性というやつは、国や、学校や、親や、その他大勢の周りの大人たちが、時代の波に揉まれながら、よかれと思って押し付けてきた価値観の集積だ。それだけの話なのだ。
その枠の中でのほほんとして、これが自分だなんて言って、そぐわない考え方や価値観、芸術作品、人間に出会えば、否定をしにかかる。そういう現場を見ると僕はとても悲しくなる。学校で教えられたような、学校の勉強をちゃんとして、いい学校を出て、いい会社に就職をして、よく働いてたくさんお金を貰う、それだけが人間の幸福だ、と信じきっているならばそれでいいと思う。だけど、人の数だけ幸せってものはちがうのだ。みんなが同じことをして、みんなが同じだけ幸せになれるわけではない。欲張りたい人もいれば、休みたい人だっている。欲張りたい人は大いに欲張って、休みたい人は適度に休みながら頑張ればいいのではないだろうか。どうしてそれじゃいけないのか。僕にはまだよくわからない。人の数だけ、しあわせの形も違うのだ。
 
少し話が逸れすぎたが、僕がここで言いたいのは、「意味がない」と思ったら、それを切り捨てるのではなく、それに意味を与える価値を、肯定する価値観を探してみるべきなのではないかということだ。哲学は昔からずっと、一口に言えば人間が生きる”意味”について考えてきた。そうして”私”という概念を発明したり、神は死んだと叫んでみたり、実存主義がどーたらとか言って、常に新たな意味、価値、価値観(世界観と言ってもいいかもしれない)を生み出してきた。新しい哲学が浸透すれば、すべてもまた新しくなるのだ。こんなにダイナミックな学問はほかにないと思う。すごく素敵だ。
ゴッホは生前まったく評価されなかった。今では世界中のみんながその名前を知っている。知っている画家の名前を挙げてみてください、と言ったら、二三番目に口に出るんじゃないかと思う。なんでそんなことが起こっているのか。時代が追いついた、という言い方がよくされる。これは、ゴッホが死んで何年も経ってから、ようやく彼の絵の美しさを発見できる人が現れて、そしてその人の考え方が広く知られるようになり、いろんな人がそれにせっせと肉付けをして、やっと世の中にゴッホの絵を美しいとするに足る価値観が形成された、ということだ。
 
だから、”意味がない”ということは素敵なことだ。まだ誰もその美しさに気づいていない、意味を与えるための価値観を自分が作り出すチャンスがある、ということだ。
既存の価値観、道徳、倫理にそぐわないからと、落ち込んでしまうよりは、そんなもの作ってしまえばいいのだ。
 
僕は何も無駄にしたくない。無意味だなどと切り捨てたくはない。
この世のすべてを、日に三度の食事も、90分の教授の長話も、鉄のように鋭い冬の風の感触も、なにもかも歓んでいたい。
生まれてきたからには、幸せにならなければもったいない。楽しくないのならやめちまえ。人生は短い。
 
いつも以上に未熟で青臭くてくだらない文章を長々と書いてしまったけれど、きっとこの曲の熱に浮かされて、ロックンロールの魔法とやらに騙されてしまったんだろう。
 
この街で俺以外 君のかわいさを知らない
今のところ 俺以外 君のかわいさを知らないはず
大宮サンセット 君はなぜ悲しい目で微笑む
大宮サンセット 手を繋いで歩く土曜日

 

読書の楽しみ

たまに、たくさん本を読んでいてすごいね、とかえらいね、とか言われることがある。

褒められるともちろんうれしいけれど、別に褒められたくて読んでいるわけではない。ただ楽しいから読んでいるのだ。僕は本を読むのは楽しいことだと思うけれど、そう思わない人も結構多いようだ。だから、僕はどうして本を読むのか、なにがそんなに楽しいのか、ということについて少し書いてみたい。

 
たとえば、見たことのない景色を見ることは、食べたことのない料理を食べることは、知らない国の音楽を聴くことは、たのしいことだ。’
あたらしいことは、たのしいことだから。
 
誰かの頭の中を覗けたら、好きな女の子の心の中に居座ることができたなら、読んだことのない本を読むのは、たのしいことだ。
自分とちがうものだから。自分の知らないことだから。
 

すべて人間は、知ることを楽しむことを求めることが本性なり。彼らが見聞を好むのは、その象徴なり。実際の役に立たなくとも、見聞はただ見聞として愛好されるからなり。すべて人間は生まれながらにして知ることを欲する。

 

 
これは古代ギリシアの哲学者アリストテレスの言葉だ。古代ギリシアの人たちは、奴隷にばかり日々の仕事をさせていて、自分たちはたっぷりの時間を持て余していた。だからいろいろなことを考えた。詩をつくったり、劇に興じたり、哲学をしたり、いろんなことをして時間をつぶした。せかせかと忙しくしがちな僕らからしたら、耐えきれないほど長い時間を、そうやって過ごした。そんな古代ギリシア人の中でも、ひときわいろんなことをじっくりと考えたアリストテレスが言うからには、きっとほんとうなんだろう。知ることは、楽しいことなのだ。
 
映画を観るのも、本を読むのも、女の子とデートをするのも、新しいことを知りたいからだ。まだ見たことのない人・街・景色、知らない言葉・思想・世界観、聞いたことのない会話、言葉になっていない自分の気持ち、自分一人では想像することすらできない幸せ・不幸せ、味わったことのない味・空気・手触り。単調の毎日も、悪くはないけれど、だんだん退屈してくる。退屈すると気が塞ぐ。楽しいことなんてもう何もないって気がして、鬱々としてくる。それからの毎日は苦痛だから、なにかわくわくするようなことを見つけなきゃいけない。そんな時、僕は本を読む、映画を観る、どこかへ出かける。世界を広げる、と言ったら大げさすぎるけれど、どうしたって目の前にあるこの世界を前にして、退屈しているよりは、見方を少し変えてみたくて、僕は知らない言葉を探す。
 
何の変哲もない空だって、ジョン・フォードが撮ったのと同じ空だと思うと、詩情豊かにきらめいて見える。andymoriを聴きながら空を見ると、何もかも捨ててしまいたくなる。どこかへ旅立つきっかけになる。結局どこにも行かないにしても、鬱々とした気分を、なんとなく撫でてあやしてくれる。
 
そんな風に、僕は、手を変え品を変え、退屈に落ち込むことなく、毎日を楽しくやり過ごしている。そのために、来る日も来る日も本を読んでいる。映画を見ている。たまには絵画なんかも見ている。アホみたいに音楽を聴いている。残念ながら、教養にはなっている気がしない。だが、誰かに言われてやっていることでもないので、ただ楽しければいいのだ、と思う。

”ジャズな書き方”試論

壊してね 壊してね こうやって作るんよ
壊してね 壊してね こうやって作るんよ
せやけどね 戻らんよ 壊したもんは戻らんよ
別物や 別物や 全くもっての別物や


ミドリ (Midori) - ちはるの恋

 

 
ジャズには、テーマと呼ばれるメロディがあって、決められたコード進行の枠組みの中で、即興演奏(アドリブ)が行なわれる。ジャズを聴く楽しみの一つには、演奏者がテーマのメロディやリズムを崩して、壊して、作り替えるそのスリリングさがある。最初に一度テーマがきちんと演奏された後は、テーマは演奏によって殺され、もう一度生まれる。よく言われることだが、ジャズには一つとして同じ演奏はないのである。だからこの人のこの曲が好きではなく、この人のこの場所、この時の演奏が好きといった語られ方をされる。同じ演奏者が同じ曲を演奏したとしても、出来映えはまったく異なる。ある時は、まるで翼が生えたかのようにすばらしいフレーズを連発し、このままどこまでもいってしまうのではないかと思えるような熱い演奏をしたかと思うと、ある時はほとんどテーマのメロディや常套句的なフレーズからはみ出せず、窮死してしまうような演奏をする時もある。
そのような一回性、スリリングさを持った、想像力の生まれる場所、それがジャズである。
ジャズはどこまでいけるかわからない。だけど行けるところまで行ってみよう。そんな能天気でストイックな、場当たり的な楽しさがある。
 
タモリが夜タモリという番組の中で、”ジャズな人”について言及したことがある。

ジャズな人ってのは、向上心がないんだよね。誤解されたら困るけど、向上心がある人は「今日」が「明日」のためにあるんだよ。向上心が無い人は「今日」は「今日」のためにあるわけだ。これがジャズの人よね。向上心=邪念てことだよね。

 

行き当たりばったりで、目の前のことを、好きなようにやる。目先の用事がぜんぶなくなってしまったら、その都度またどこかから探し出してくる。タモリは、「人生は用事の積み重ねだ」とどこか別のところで言っていた。

 

僕は、ぼんやりとだが、”ジャズな文芸批評”というものを目指している。ある本を読んで、ある文章に心惹かれる。それを書き取る。そしてしばらく考え事をする。そうして出てきてきた言葉は、僕のものというよりも、その本によって考えさせられたもの、その本の内容の変奏曲とでも言うようなものだろう。僕はそれでいいと思う。ある本の内容をテーマとして、僕が即興演奏をするのだ。行けるところまで行っちまえばいい。どこにも行けなくたっていい。書いている間は、確かなリズムが、躍動が、生命が感じられるのならば。それを読んで、誰かがまた違うことを考える。そうやって、緩やかになにかの律動が、広がっていけばいいと思う。
 
ゴダールもそうだ。彼もまるで即興演奏をするかのように、目の前に広がる世界を、カメラを通して変奏する。だから彼の映画は、あらかじめ決められた筋書きなんてないかのようなスリリングさがある。彼についてはもう少し考えがまとまったらまたじっくり書いてみたいと思う。

ヴィム・ヴェンダース『ランド・オブ・プレンティ』 あの日から僕らが考えている「豊かさ」について

 

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アメリカ合衆国。USA。日本に住む僕らからしたら、まったくのよその国のはずなのに、僕らはみんなアメリカの大統領の名前をフルネームで言える。誰もがアメリカ製のピカピカした映画を観たことがある。ジーンズを履いたことがある。人によっては、ニューヨークに住むのが夢だなんて言っている。だけど、僕らが多かれ少なかれ憧れている、アメリカって一体なんなんだろう。
古くは、新大陸として、新しい思想と、新しい自由と、新しい生活が、新しい人間が、夢見られた国。今だって、アメリカン・ドリームなんて言葉がみんなに通じるくらい、世界中の夢とあこがれが集まる国だ。
アメリカはこれまで、素敵なものをたくさん生み出してきた。たくさんのわくわくする映画を生み出してきたし、ロックンロールが産声を上げたのもアメリカだし、アメリカの文学は、村上春樹をはじめとしてたくさんの人に影響を与えている。
 
だけど、アメリカは良いことばかりをしてきたわけではない。そもそもインディアンを大量に虐殺してできた国だし、そのあとも戦争をたくさん戦争を起こして、たくさんの人を殺した。ランド・オブ・プレンティ、豊かさの国。アメリカは、その豊かさ、武力を使って、たくさんたくさん、他の国のささやかな幸せを叩き潰してきた。そうして世界中の豊かさを自分のものにした。
 
それでもずっと、平気な顔をして、私には夢があるだとか、ラブ&ピースだとか、月までロケットを飛ばして、この一歩は小さいが、人類にとっての偉大な一歩だとか、汚いことは何も知らないような顔をして嘯いてきた。
 
その大きな嘘にみんなが疑いを持ち始めたのは、9・11のテロがあってからだ。大きなビルに飛行機が突っ込んで、みんなが今まで見ないようにしてきたことに目を向けるようになった。ずっと間違ったことをしていたのかもしれないと、すべてに対して疑いだした。そうして、本当の豊かさ、本当の幸せってものを、真剣に考え出した。
 
この映画は、そんな悲しみを忘れないままに、ある一人の女の子と、ベトナム戦争の傷跡を消せないで、それに気づいてすらいない伯父が、二人で新しい自由や、幸福、豊かさを探す旅をするお話だ。
 
どんなにささやかでも、ありふれたものでも、かまわない。みんなが、誰も傷つけずに、自分の居場所を、自分の幸せを見つけられたらいいと思う。ラブ&ピースだなんて、嘘みたいなことを、本気で歌える、そんな世界がいつかきたらいいと願っている。

 

ランド・オブ・プレンティ スペシャル・エディション [DVD]